動乱の時代の伝承は底倉温泉についても残されている。南北朝の対立が終焉に向かい、室町幕府が武家政権の実質を発揮し始めたころ、応永十年(一四〇三)南朝方の遺子新田義睦が箱根底倉に潜伏中に討ちとられるとい ...
明応四年(一四九五)八月、一説によると鹿狩に託して箱根山に兵を入れた伊勢宗瑞(北条早雲)は、一挙に小田原城を襲い、城主大森藤頼を追い、相模進出に成功した。 小田原制圧後、早雲はしばらくは伊豆・西相 ...
このように後北条氏と深く係わりのある箱根山には、その山中から湧出する温泉にも後北条氏の足跡が多く残されている。 早雲寺の門前地である湯本は、後北条氏の足洗湯と伝え、氏綱以下武将たちが早雲寺へ参詣の ...
五代およそ一〇〇年南関東一円に勢力をはった後北条氏にも、落日の時が迫りつつあった。天正十八年(一五九〇)秀吉の小田原攻めが始まったのである。同年三月一日秀吉はおよそ三万五〇〇〇の直轄軍を率いて京都を ...
慶長八年(一六〇三)江戸に幕府を開いた徳川家康は、東海道の整備に着手、同年八月沿道に一里塚を設置した。後に箱根八里と呼ばれるようになった箱根道にも風祭、湯本茶屋、畑宿、箱根に塚が設けられていった。更 ...
慶長から寛永にかけて箱根地方の東海道沿いが整備されると並行して、箱根地方の早川沿いの村々も湯治場としての姿を整えていく。戦国動乱の傷あとからようやく立ち直った湯治場、温泉が発見され新しい湯治場として ...
箱根七湯の温泉の効験が人々の間に流布していく契機のひとつは、将軍家への献上湯であったと思われる。 温泉を樽に詰め遠路運搬し、入浴するといういわゆる汲湯の風習は、すでに戦国時代には行われていた。古河公 ...
総勢一〇〇名を越える行列を従え、温泉場に乗り込む大名湯治の華かさは、江戸初期熱海温泉などに見られる日常風景であった。将軍家をはじめ諸大名が江戸から船で乗り込む熱海湯治と違って、けわしい山坂を越えての ...
このような大名湯治に比べて、庶民の湯治はどのようであっただろう。江戸後期遊楽化する七湯湯治とはちがい、江戸前期の湯治は病気治療を目的とした素朴な入湯滞在であった。この時代の湯治日数は一廻り(七日間) ...
化政期の江戸庶民の生活動向をうかがう興味深い随筆に武陽隠士の「世事見聞録」があり、その一節には次のような記述がある。 今軽き裏店のもの、その日稼ぎのものどもの体を見るに、親は辛き渡世を送るに ...