江戸から明治へ激しく揺れ動く時代の中で、箱根七湯の湯宿主たちは、どのように時代に対応すべきか、苦慮していた。 そんな時に箱根温泉の将来を予言し、時代の流れに湯宿主たちがどのように対処すべきかを説い ...
福沢とは別に箱根道の近代化を計画していた人がいた。足柄県令柏木忠俊である。足柄県は、旧江川太郎左衛門支配の幕領韮山県と旧小田原藩領の(相模国分)小田原県とが合併し、明治四年(一八七一)十一月にできた ...
福沢諭吉から提言を受けた塔之沢の湯宿主たちの道路開削工事は、湯本―塔之沢―木賀間の新道開拓のための御下賜下付願という形で計画されたらしい。明治十二年(一八七九)六月、湯本・塔之沢・大平台・底倉・宮城 ...
小田原―湯本―塔之沢間の道路開削が進み、人力車の通行可能な車道が整備されるようになると、更に塔之沢―大平台―宮之下に向けての車道開削が問題になった。早川渓谷沿いにあるこの道は、大水が出るとすぐに崩壊 ...
宮之下まで整備された箱根七湯に道路開削を更に小涌谷―芦之湯―元箱根―箱根へと伸長させ、箱根七湯道の総仕上げをしようとした人がいる。芦之湯の松坂萬右衛門である。 萬右衛門は、芦之湯や箱根の振興のため ...
箱根山においては道路開削が進められていくのと平行して、交通機関の近代化、あの福沢諭吉が提言した「岩を砕て鉄道を造る」時代へと進みつつあった。 国家的規模での交通機関の近代化は、明治五年(一八七二) ...
明治二十年代日本の近代化の潮流は激しくうずまいていた。馬車鉄道も新しい時代に対応していくためには電気鉄道へ転換していく必要に迫られていった。 小田原馬車鉄道が電気鉄道へと転換していく計画は、明 ...
箱根山に自動車のエンジン音が響いたのは、明治の末である。このころになると、横浜在住の外国人が自家用自動車を走らせて箱根に遊ぶようになった。明治二十年(一八八七)塔之沢・宮之下間延長五・七キロの車道が ...