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【国立公園制定のうごき】

 箱根振興会を中心として繰りひろげられたさまざまな観光宣伝、観光箱根をより魅力的なものへと育てていこうとする数々の保勝事業は、関東大震災から豆相地震と大きな打撃を受けた箱根温泉が、その再生を期して取り組まねばならぬ大事業であった。
 昭和初年代の箱根温泉を取りまく社会環境は厳しかった。昭和四年(一九二九)十月ニューヨークの株式市場の暴落が起こした恐慌の嵐は、日本経済を未曾有の不況に落し入れ、箱根を訪れる温泉客は激減した。加えるに昭和元年国鉄の熱海線電化などに見られる交通機関の近代化は、温泉観光に赴く都市住民の足を温泉地へ分散化する側面もあった。
 箱根の旅館業者は自分たちが営業を営む箱根を温泉観光地として強くアピールする必要を痛感していた。そこへ国が日本国内に国立公園を設立するという動きがあるという情報をキャッチした。
 日本の代表的な景勝地を国立公園とし、国家がこれを管理するという考えは、政府や有識者のなかでは明治期から議論されていたが、富士山を中心とする明治記念日本大公園設立ノ請願が第四十四帝国議会に提出され、採択されるに及びその声はより高まった。そして「大正十四年には、政府においても内務省衛生局に国立公園の調査部を設け、制度の確立を企図する一方富士山をはじめ十六か所の候補地を選定し、調査に着手」(厚生省国立公園部監修、国立公園)したのである。
 箱根振興会を中心とする箱根山の関係者は、このような国の動きを知ると、誘客対策の恰好なきめ手になると考え、箱根山を国立公園選定に入れるべく、昭和二年(一九二七)ごろより神奈川県を通じて請願運動を開始した。

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