小田急の開通、国鉄東海道線の整備により京浜地区で箱根温泉を訪れる行楽客が増加する中で、小田原から箱根へ向かう乗客をめぐって自動車事業を中心に箱根山において競争が激化していった。
箱根山における自動車事業の発展については、第二章において既術してあるので、詳細な点は参照されたいが、小田原電気鉄道と富士屋自動車二社の激しい競争は、箱根山交通戦争ともいわれるほどであった。
しかし二社の対立・競争も昭和七年(一九三二)八月、富士屋自動車は、箱根登山鉄道の自動車部を吸収合併し、社名を富士箱根自動車株式会社と変更したことにより終結、長年にわたって繰り広げられた交通戦争も一時は平和な時代を迎えた。
だが、それは表面上のことであった。箱根山とその交通をめぐる新たな、より大規模な対立と競争の芽がこのころからすでに芽ばえ出していった。それは国際的観光地箱根を我が手中に収めようとする西武堤康次郎と東急五島慶太の経営戦略の中から生まれていった。
西武の堤康次郎が箱根山に狙いをつけて姿を現したのは、大正八年(一九一九)のことであった。翌九年三月堤は箱根土地株式会社を設立し、仙石原七〇万坪、箱根町一〇〇万坪を手はじめに芦ノ湖周辺の山林原野をつぎつぎと買収していった。町村有地・私有地の別を問わず、堤はねらいを定めた土地はほとんど手中に収めた。
堤がつぎにターゲットとしたのは芦ノ湖遊覧の渡船権であった。このころの芦ノ湖遊覧は、元箱根と箱根の渡船組合が実施していたが、両者は客の奪い合いで激しく対立していた。堤はこの対立に目をつけ、両組合を一本化した新会社を作ることを提案、かねて両者の対立に頭を痛めていた地元有力者の仲介を経て、大正九年(一九二〇)四月一日、渡船業者を株主とした「箱根遊船株式会社」の設立へと持ち込んだ。新会社には、社長に元箱根側の河島与右衛門、常務に大場金太郎が就任した。が、「実権は堤の手に握られた。堤は時の氏神のような格好で乗り出して来て、まんまと湖上交通の独占権を握ってしまった。」(新箱根風雲録)のである。
堤が次にねらったのは陸上交通であった。この時代箱根山の交通は、小田原電気鉄道・富士屋自動車に握られ堤が食い込む余地はなかった。堤はこれらの勢力に対抗するため熱海峠―箱根峠間、元箱根―湖尻―大湧谷―小湧谷間の私的専用道路を建設するという計画を立て、大正十四年(一九二五)その第一期計画として熱海峠―箱根峠間の専用道路建設を内務省に出願した。
だがこのような専用道路計画は、富士屋ホテル二代目山口正造によってすでに計画されていた。山口は長尾峠から芦ノ湖西岸の外輪山の尾根伝いに越え、十国峠から熱海に下る専用道路を立案、実地測量の上すでに出願中であった。箱根山の専用道路は、山口と堤の競願という形で許可を争ったが、堤の強引さとねばりにはじめは許可をためらった内務省も、昭和五年(一九三〇)七月、熱海峠―箱根峠間九・九キロメートルの専用道路の建設を許可した。
工事は三か年をついやし昭和七年八月完成した。ついで昭和十年、第二期工事として元箱根―湖尻―大湧谷―小湧谷間一九・八キロメートルの専用道路も完成し、堤は、奥箱根に土地、湖上、道路を私有する大資本家として君臨するようになった。
いま一人の交通資本家五島慶太が箱根へ姿をあらわすようになったのは、堤よりずっと遅れた昭和十七年(一九四二)であった。同年五月三十日、箱根登山株式会社は、電力事業の国家管理が立法化され、実施されていくなかで、日本電力が所有していた同社の株(一〇万株)を東京急行電鉄株式会社に譲渡した(箱根登山鉄道のあゆみ)。と同時に新任の役員に五島慶太ほか五名が就任した。五島は後に代表取締役の椅子に着き、箱根登山の全権を掌握した。
この時代は戦争の激化に伴いガソリンも配給になり、やがて木炭車があえぎながら箱根山を登っていく状態であったから、五島が箱根の重要幹線を自己のさん下に収めたことの意味は表面化されなかった。
しかし、箱根山の交通支配を狙う堤と五島の確執はこの時から始まっていた。戦後繰り広げられていった堤さん下の駿豆鉄道と、五島さん下の箱根登山との箱根山交通戦争の開始の時点でもあった。
【交通戦争の激化と大資本の進出】
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