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【丹那トンネルを抜けて】

 関東大震災によって大きな打撃を受けた国鉄も、いち早くその応急的な復旧工事を実現すると、更に輸送力増強という時代の要請に応じ、施設の整備・改良を進めていった。大正十年(一九二一)五月一日、横浜―大船間に自動閉塞式を実施し、自動信号機を設置した。この自動信号機は大正十五年になると、色灯式となり、東海道本線全線に設置されていった。この信号の自動化によって、列車の運転回数は大きく増加した。
 信号の自動化と並んで、鉄道の電化が進められた。その最初として東海道線東京―小田原間の電化工事が大正十一年(一九二二)五月に着工された。工事は大震災によって一時中断したが、大正十四年十二月には完成、同月十三日から一部の列車は電気機関車による運転を開始した。
 国鉄がこれら施設の改良を進めるなかで、最も力を入れて取り組んでいたのが、国府津から熱海―沼津に至る熱海線の改良工事であった。
 衆知のように明治二十二年(一八八九)七月に開通した東海道線は、国府津から御殿場を経由して沼津に至る路線であった。この御殿場経由の路線は、水平距離一〇〇〇メートルに対して二五メートルの上り下りという一〇〇〇分の二五の急勾配が連続し、補助機関車を使用しての運行は、輸送力に大きな障害となり、新路線の設置が早くから望まれていた。
 このため国府津から熱海―沼津に至る路線の計画がねられ、大正九年十月二十一日まず国府津―小田原間の工事が完成し、小田原駅が新設された。しかしこの路線敷設の最大の問題は小田原市早川から熱海に至るまでの富士・箱根火山帯をトンネルによって抜けなければならないことであった。そのなかでも熱海から三島へ抜ける丹那トンネルの工事の完成が、この路線実現のための大きな課題だった。
 丹那トンネルの工事は、すでに大正七年(一九一八)に着手されていたが、難工事の連続で開通の見込みはなかなかつかず、関東大震災による中絶を経て、昭和八年(一九三三)十月二十一日、ようやく貫通、翌九年十二月一日熱海線は開通した。着工以来十七年、二五〇〇万円の巨費を費やし、六七名の犠牲者を出したトンネルに鉄路の響きが聞こえるようになったのである。
 熱海線の完成により東海道本線は熱海経由となった。この路線の開通により箱根・伊豆の温泉郷へは行楽客が急速に増加していった。そして大都市の市民の余暇利用の大衆化、新婚旅行の普及などにより箱根・熱海の温泉地を訪れる人々は確実に増加していった。国鉄ではこのような動向に答えるように東京―小田原―熱海間に週末、臨時列車を運転したり、東海道全線を走る特急列車が、「つばめ」を除き、小田原・熱海に停車するようにもした。これらの処置は東京・横浜の大都市と箱根とをより至近な時間におくと同時に、関西方面からの行楽客を箱根に呼びよせる条件が整ったことになり、一連の国鉄の路線整備は大衆的観光温泉地へと脱皮しつつある箱根にとって、大変プラスとなった。

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