「本県を縦走する小田原急行鉄道・けふ愈々開通の喜び・開発する沿線 甦生する名所旧所」、昭和二年(一九二七)四月一日の「横浜貿易新報」は、大見出しで、このように小田原急行鉄道開通を伝えている。新宿―小田原間の所要時間は、急行で一時間四五分、普通で一時間五七分 小田原と都心を結ぶ大動脈がここに完成したのである。
小田原急行鉄道の敷設計画は、大正九年(一九二〇)八月二十四日より始まった。この日、鬼怒川水力電気の社長利光鶴松ら四八人の発起人は、東京―小田原間鉄道敷設の免許を連署で鉄道大臣あて申請した。この申請はすでに発起人らが免許を得ていた東京高速鉄道(地下鉄道)の延長戦として新宿―小田原間の電気鉄道が計画されたのであった。
当時、厚木・秦野・伊勢原の神奈川県中央部には、鉄道がなく、沿線の経済活動の活性化のきめてとして期待された。箱根温泉にとってもこの鉄道計画は大変な朗報であった。この鉄道が開通すれば、東京からの旅客誘致がおおいに期待できた。
大正十一年(一九二二)五月二十九日、鉄道敷設の免許が下付された。翌十二年三月八日、社名を東京高速鉄道株式会社から小田原急行鉄道株式会社と改称した同社は、取締役社長利光鶴松、常務取締役波多野友江ほか八名の役員と、監査役に鳩山一郎らを迎え、資本金一三五〇万円をもって創業した。
同社は国鉄新宿駅乗り入れの認可を受け、工事着工に向けて準備を進めていたが、大正十二年の関東大震災によって、若干準備が遅れ、大正十四年(一九二五)十一月十日ようやく起工式を実施し、新宿―小田原間の全線の工事に着手した。
昭和二年(一九二七)四月一日、小田原急行電気鉄道は開通した。新宿―小田原間八二・八キロメートル、その間の駅は三八駅であった。同年十一月十五日には全線の複線化が完成し、これに伴い新宿―小田原間に急行を一時間間隔で運転できるようになった。
同鉄道は、開業直後から箱根回遊の乗車クーポン券を発売、また昭和六年(一九三一)からは、新宿―箱根湯本・強羅間往復割引乗車券に、ケーブルカー・バス・旅館・土産物店の割引証をつけたクーポンも発売した。また昭和十年(一九三五)六月からは、毎土曜日の午後、ノンストップの小田原行週末温泉特急を運転し、東京市民の箱根への温泉旅行をより身近なものにした。
【小田急の開通】
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