文明開化の波をいち早く受けとめ、箱根を新しい温泉場へと転換させようとする動きは、明治初年代から十年にかけて、箱根七湯の各地に建てられていく洋風旅館の姿にも見出すことができる。
湯本の福住正兄が明治十年(一八七七)から十二年にかけて建てた擬洋風旅館は、その先鞭をつけたものといえよう。新しい様式の旅館建築を思いたった正兄は、当時擬洋風建築の傑作といわれた第一国立銀行と、御雇外国人技術者ブリジェンスによって設計された横浜駅舎に目をつけ、この二つの建築様式を旅館の建築に取り入れた。
正兄が建てた擬洋風旅館の建物は、南・北の二棟からなり、南棟は明治十年(一八七七)五月に完成「金泉楼」と称した。つづいて北棟を同十二年に完成「万翠楼」と呼んだ。明治二十年発行の箱根温泉誌は「福住は近頃洋風の石造三層楼を建築し、其営繕美を尽し之を金泉楼と号し、且西洋料理をも調進し旅客の待遇尤も懇切なり、故に浴客常に絶る日なしといふ」と、福住の洋風建物と繁昌の様子を伝えている。
完成した擬洋風旅館の内部は日本間であったが、らせん階段の手摺や天井の木製ランプの釣飾に、洋風手法を巧みに取り入れている。外部にはさまざまな洋風スタイルが取り入れられ、工夫がこらされた。外壁は白石山の石を積み、細長い窓には鉄製の洋風グリルがつけられ、外から見れば洋風ホテルの観があった。幸いにも福住正兄の建てた洋風旅館は現存している。昭和五十三年この建築を調査した東大生産技術研究所、村松研究室の報告書は「福住旅館は、新橋・横浜駅舎や第一国立銀行、為替バンク三井組など、明治初期の代表的洋風建築を今日実物をとおして偲ばせてくれる他に例のない建物であり、またその創意に溢れた防火建築の手法や土蔵造りの応用は、防火建築技法の先駆となった点でも歴史的価値がある」と述べている。
以上の記述は、岩崎宗純著『箱根七湯、歴史とその文化』から抜萃したものであるが、同書はまた、福住の洋風旅館への転換を、正兄の優れた素質の陰に、湯本の温泉場がもつ時代への先進性の伝統が支えになったであろうと、述べている。
宮之下の奈良屋には、早くから外人客が投宿した。慶応三年(一八六七)世界一周の途、日本に立寄ったフランス人、ヴーヴォワール侯爵は、同年五月十七日、宮之下入湯の様子を紀行文に書いている。また明治元年(一八六八)宮之下を訪れたモリソンは、奈良屋に泊ったことを手記に残している。当時の奈良屋には洋式の設備はなかったが、手馴れたサービスと茶室が外人の間に好評であったという。
明治十一年(一八七八)山口仙之助が藤屋(安藤勘右衛門)を買収して外人専門のホテルを開業したので、老舗奈良屋と新参者富士屋ホテルとの間には外人客争奪の激しい競争が展開したが、明治十六年(一八八三)十二月十二日の宮之下の大火は、この二軒の宿を灰燼とした。ライバルであった両者は、早速再建にとりかかり、相ついで家屋を新築した。
火災の翌年、奈良屋が最初に建てた建物は現在の本館の原形となる純和風建築であった。つづいて新築した三階建の西洋館は本格的な洋式建物で大隈重信公はこの洋館を定宿としたという。
大火後、富士屋ホテルも平家建洋館一棟、日本館、さらに二階建洋館一棟を年ごとに新築したが、当時の写真を見るに、奈良屋の建物は、はるかにこれを凌ぐものがあった。
明治二十年(一八八七)刊行の『箱根温泉誌』は、当時の宮之下の湯宿を次のように紹介している。
奈良屋は旧家にして同所一等の位置を占め、先年焼失の後広大の建築をなし、其造作等美を尽し風
流を極む、同家は内湯にして湯槽を三ツに仕切又傍に湯瀧あり当家の湯を三日月湯と言囃せり、目下
崖上に木造の洋館を新築し浴客五百人を入るべし、此所は洋人の多く来る所ゆえ和洋と区別を立しな
り、然れど浴客の随意に待遇し又西洋料理をも調進せり。
同所藤屋勘右衛門も又旧家なりしが故ありて、先年横浜なる神風楼山口千之助に譲れり、依て神風
楼と改め同所高躁の地に広大の洋館を築造し、傍らに日本風茶座敷やうの平家造りを建て、これ又和
洋の区別を立て奈良屋と拮抗せり、且近頃神風の称へを廃し旧の藤屋に復したり、
かくして、両者の外人客獲得の争いは一層エスカレートしたが、明治二十六年(一八九三)五月、天方祐順の斡旋により、宿泊営業に関する契約が結ばれ、以後奈良屋は邦人客専門、富士屋ホテルは外人客専門とし、富士屋ホテルは奈良屋に一定の報償金を年々支払うことを約して、この競争は終熄した。この契約は大正元年までつづいた。
奈良屋の西洋館は大正十二年、関東大震災で倒壊し、今は写真に昔日の面影を偲ぶのみである。
福住や奈良屋に先がけて、山頂の芦之湯にも明治初年代、擬洋風建築の湯宿が出現した。御雇外国人第一号として来日したフランス人法律家ブスケは、明治五年(一八七二)八月、芦之湯の総湯の様子を紀行文に書いている、此の頃箱根を訪れた外国人は奈良屋のほかに、芦之湯の松坂屋にも多く泊った。アメリカ人の国籍を米利堅(メリケン)人と記した当時の外人宿帳は、今も松坂屋に保存されている。
明治四年(一八七一)の大火で芦之湯は東光庵を残し、全村が焼失した。再興に当たって、松坂萬右衛門が最先に建築したのは和洋折衷の擬洋風二階家の建物であった。一階に玄関、食堂の外洋間四室、二階に日本間六室を配し表館と称した。当時、建築資材の運搬に困難な芦之湯では、木材をはじめ主な材料は、すべて現地で調達しなければならなかった。布基礎には二子山の石を加工して並べ、木材は持山の杉・桧を用い、屋根には周辺に豊富に自生する茅を葺いた。外壁のドイツ下見や、窓枠、ろくろ挽きの手摺には横浜からとりよせたペンキを塗り、精一杯洋風を凝らした。ペンキ塗りの洋館に大きな小屋組の茅葺き屋根をのせた建物は、訪れた外国人にさぞかし奇異の感をいだかせたであろう。
洋室に使用したベッドはスプリング代わりに籐を編んだ木製のもので、枕元には「ポー」と称する便器を専用の台の中に置いた。また部屋の隅には、上坂を円形にくりぬいた三角形の台に、花蝶や山水を染付けた陶製の洗面器を置き、水差しを備えた。アメリカ映画に見る開拓時代の西部ホテルのようなものであったろう。二階の日本間は純和風の造りであるが、西洋人の背丈を考慮し、鴨居の高さを六尺(通常五尺八寸)としたのが特色である。
この建物は現在も使用されているが、内外部ともに改装の手が加えられ、今は玄関、日本間の造作、ペンキ塗ろくろ挽きの手摺、一か所に残る泡つぶだらけのガラスの建具に当時の面影を残すのみである。しかし、風雨の激しい芦之湯で一〇〇年余り、関東・豆相の大地震にも耐えたこの建物は、現地に自生する木材を用い、気候風土を考慮して建てられた日本建築が、いかに堅牢であるかを語っている。
その後、萬右衛門は明治二十年代に、洋間九室の桧皮葺二階建西洋館一棟を増築したが、この建物は関東大震災で倒壊した。当時の宿帳によると、明治十五年(一八八二)に投宿した外人客は八五人、同二十七年には、一七〇人、延人員八二七人(平均五泊)であった。ちなみに同年の日本人客は投宿人員五六七、延四四六〇人であったから、約二割を外人客が占めている。
このように年ごとに増える外人客に力を得た萬右衛門は、明治三十三年芦ノ湖畔に進出、松坂屋支店、通称富士見ホテルと呼んだ洋風旅館を元箱根の西のはずれの逆さ富士の名所に開業、次男好之輔に経営を任せた。元箱根松坂屋の前身である。この時から芦之湯を本店と呼ぶようになった。また富士屋ホテルとタイアップし、クーポン制度によって、芦之湯の入湯と、富士見ホテルの昼食を富士屋ホテルの外人客に供した(富士屋ホテル八十年史)。この湖畔の洋館は関東大震災で倒壊した。
明治二十年代に入ると、塔之沢にも洋風建築の旅館が出現した。明治二十年発行の『箱根温泉誌』は塔之沢玉の湯(子安ひさ)を「目下洋風の石造を新築して土地の面目を一新せり、一名を洗心楼といひ、西洋料理をも調進し、浴客群集して他の六軒を圧倒するの勢あり」と紹介している。また明治二十二年刊の『日本名所図鑑』には鈴木(環翠楼)も「方今洋風の煉瓦石壁を新築し、土地の面目を一新す」とある。
また明治二十七年発行の「箱根温泉案内」は、芦ノ湖畔の箱根の項に「此地は往昔よりの宿駅なれば客舎甚だ多し、其中最も壮大清潔にして眺望に富むをはふや哲三といふ、此家は湖涯に層楼を築き幾多の風光を双眸の中に蒐羅するを以って三景楼と号す、外人の出入あるゆえに西洋料理も調進せり」と、「はふや」を紹介している。「はふや」の設立者高瀬四郎左衛門は外人旅館創立の先駆者で、全国に宣伝して客を呼んだといわれ、人々は「はふや」を「異人館」と呼んでいた(富士屋ホテル八十年史)。「はふや」も松坂屋支店同様、富士屋ホテルとクーポン契約を結んでいたから、その建物も洋風の装いであったと思われる。大正十一年(一九二二)山口正造が発起人となり、当時の所有者野村洋三(宍戸進一経営)から「はふや」を買収、箱根ホテル株式会社を設立した。社長に就任した山口正造は、早速改装を加え、また別に木造四階建和洋両様の新館を総工費二一万三〇〇〇円を投じて完成、大正十二年六月十五日、箱根ホテルを開業したが、わずか二か月半、九月一日の大地震で壊滅した。