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【湯治場湯本】

 湯坂路が箱根越えの道、二所詣の参詣道として人々に利用されはじめると、湯坂路の起点にあたる湯本は宿場としてにぎわい始める。仁治三年(一二四二)「東関紀行」の作者は湯本に宿泊、「箱根の山につきにけりーこの山を越えおりて、湯本といふ所に泊りたれば、みやまおろし烈しくうちしぐれて、谷川みなぎりまさり、岩瀬の波たかくむせぶ」
という一説を書き残している。奈良西大寺の叡尊も弘長二年(一二六二)関東下向の際にこの地で中食をとっている(関東往還記)。応仁二年(一四六八)の「経覚私要鈔」にみられる「自京都至鎌倉宿次第」には「湯本五十丁」とあり、山麓の湯本が京都と鎌倉を結ぶ街道の宿場の一つとして人々に利用されていたことがわかる。
 中世箱根越えの宿場湯本は、中世の湯治場でもあった。前述のように湯本の開湯は、奈良時代にまで遡る伝承があるが、歴史資料に明確に記されるのはやはり鎌倉時代からである。鎌倉後期の武将で元弘三年(一三三三)新田義貞の鎌倉攻めの時、敵陣に馳入って討死した金沢貞将の書状に、
  御礼の旨悦び承りおわんぬ。仰持病療養のため湯本へ下向仕り候。
  即に御返事申すべく候の処、遅々恐れ存じ候ー(金沢文庫文書)

とあり、湯治場湯本の姿が浮かび上がってくる。『曽我物語』には建久四年(一一九三)四月中旬和田義盛が子息を引きつれ、伊豆熱海湯湯治の帰り、早河湯本湯を訪れたという記載があるが、湯元湯が中世鎌倉の武将たちによって利用される湯治場であったことが推察される一節である。

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