この湯坂路は、箱根往還路というだけでなく、源頼朝をはじめとする鎌倉幕府の歴代将軍・要人たちの箱根権現への参詣道でもあった。
頼朝は治承四年(一一八〇)の挙兵の際にも援助を受けた伊豆・箱根両権現を崇敬し、鎌倉に幕府を開くと両所への参詣、所謂二所詣を始めた。「吾妻鏡」文治三年(一一八七)十二月二十四日の条には、「明春正月二所御参詣あるべき間、今日、供奉人を差定せらる」とあり、これが二所詣に関する記事の初見である。
文治四年(一一八八)正月二十日頼朝は、随兵三〇〇騎を率いて二所詣に出発した。以降頼朝の二所詣は、建久元年(一一九〇)正月、同二年二月、同三年正月と行われていった。
二所詣の道順は、始めは伊豆山から三島・箱根へと向かっていたが、伊豆山に向かう途中の石橋山の合戦場跡で、頼朝は戦死した部下の佐奈田与一の墓を見て涙を流すので、神詣でにはふさわしくないと先達がいい出し、建久元年(一一九〇)以後は、箱根・三島を経て伊豆山を詣で鎌倉に帰るコースがとられたという(吾妻鏡)。
正治元年(一一九九)正月一三日頼朝が没し、そのあと頼家が将軍となるが、頼家は建仁三年まで鎌倉殿として君臨した五か年間、二所詣に出かけた形跡がない。
三代実朝が二所詣を行ったのは承元元年(一二〇七)正月からである。以降承久元年(一二一九)正月二十七日殺されるまで、実朝の二所詣は七回に及んでいる。「金槐和歌集」に載せられているあの有名な一首
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や
沖の小島に波の寄るみゆ
は、この二所詣の途中の作で、恐らく湯坂路を経て箱根権現を詣で、三島大社に向かう途中で出会った風景を歌ったものであろう。
このように鎌倉幕府の歴代将軍の二所詣が継続されていくなかで、湯坂路は参詣道としてもしだいに姿を整えていったものと思われる。
【箱根権現参詣】
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