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【湯坂道の成立】

 湯本より湯坂山・浅間山・鷹之巣山など箱根新期外輪山の峰々を通り、芦之湯へ下り、精進ヶ池の淵を経て箱根権現に向かい、それより芦ノ湖畔の芦川宿から箱根峠を経て三島に至る道を湯坂路という。
 この道がいつ開かれた道か定かではないが、「日本紀略」によると延暦二十一年(八〇二)富士山が噴火し、その焼砕石で足柄路が塞がれたので、その代わりに「筥荷途」を開いたとある。あるいはこの道が後に湯坂路と呼ばれるようになったのかもしれない。「吾妻鏡」には、治承四年(一一八〇)八月二十四日、石橋山の合戦で敗れた北条時政父子が、「箱根湯坂を経て甲斐国に赴かんと欲す」とあり、平安末期には湯坂路は箱根越えの道として人々に知られていたと思われる。
 建治三年(一二七七)十月二十八日京都から鎌倉へ下った阿仏尼は、その時の日記「十六夜日記」に、

  あしから山は、道遠しとて、箱根路にかかるなりけり、
   ゆかしさよそなたの雲をそばだててよそになしぬる足柄のやま
  いとさかしき山をくだる。人のあしも、とどまりがたし、湯坂とぞいふなる。
  からうじてこたえればー

と記している。鎌倉中期になると、足柄路に比べて道程の短い湯坂路を選ぶ旅人の姿がこの日記からも想像される。

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