戦後の民主化が進む中で、極端な変貌をみた国策の一つに労働運動の解放があった。終戦を迎え連合軍の占領下におかれると、戦時中微用工員に強制労働を強いていた軍需工場には赤旗が林立するようになった。このような激しい時代の流れの中で昭和二十一年(一九四六)三月労働組合法が施行され、つづいて、二十二年四月七日には労働基準法(労基法)が制定されたのである。
労基法は均等待遇、男女同一賃金の原則、強制労働の禁止、中間搾取の排除等を骨子とし、適用事業所は就業規則を設け労働条件について労使の間に協定を結び、労働基準監督署に届出ることを義務づけられた。戦前から家業として永いしきたりを守り、心の通うサービスをモットーに営業をつづけてきた旅館主にとって、労基法の制定は大きな問題となった。
昭和三十年代に入ると、労働省労働統計調査部の就業調査が旅館業にも及び、監督署の行政指導は厳しく行われるようになった。この頃協同組合は割増賃金の算出表を組合員に配布したり、説明会を開いて労基法の徹底と就業規則作成の指導を行っている。三十四年一月には、監督署より厳重な警告を受けたとして「従業員に対する就業規則及び労働条件の徹底方について」一月末日までに周知の日時、方法等を監督署に報告するよう組合員に通達している。組合員全旅館の従業員名簿を組合事務所に備え、労基法に基づく健康診断を始めたのもこの年であった。三十六年には監督署の立入検査が抜き打ちに行われ、休日労働に関する無協定や割増賃金の未払など是正勧告を受ける旅館が数多くあった。割増賃金に関しては、超過労働の時間の把握そのものが一般の旅館では困難な時代だったのである。この頃から旅館では客室係の労働時間を短縮しなければならなくなり、更に人手不足による省力化も手伝って、客室には電話器や冷蔵庫を備え付けるなど設備に重点がおかれるようになった。
組合が労災保険の事務取扱いを始めたのは昭和三十六年五月である。従業員数に応じて一か月一五〇円から三〇〇円の手数料を徴収した。四十七年(一九七二)四月の法改正によって旅館は任意適用から強制適用の事業所にかわった。
翌四十八年労務委員会(委員長沢田和)は「週休二日制実態調査」を実施している。昭和五十年代に入ると大型化した既設旅館に労働組合が結成されるようになり、時代の要請と相俟って、旅館の労動条件は大幅に改善され労基法は経営の根幹を占めるものとなった。
昭和五十八年四月一日、労働時間の特例が廃止され、旅館の労働時間は一日八時間週四八時間に改められた。特例廃止に当たって旅館三団体は宇佐美鉄造国観連副会長を中心に労働省と折衝を重ねた結果、労働時間が特に不規則になりがちな客室係、調理係、仲番及びフロント担当者に限り一ヶ月四週を通し一九二時間という「変形労働時間」が認められ、更に「暦日にまたがる休日」(たすきがけ休日)を労働省が条件付で「当分の間認める」としたことは特例廃止後の旅館にとって有難い措置であった。
この特例廃止を期に組合は労務厚生委員会(委員長石村菊次)が中心となり箱根の実状に適合する就業規則の試案を作成、組合員旅館は同年三月末日までに就業規則の改正を完了した。
【労働基準法】
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