第五章「高度成長下の箱根温泉」の項に述べたように、昭和三十年後半から四十年前半にかけての箱根温泉の開発と発展は実にめざましいものであった。このような状況の中、昭和四十三年五月三十日開催された通常総会で、石村喜作理事長は任期一年を残して四十年にわたる理事長の職を後進に譲り、副理事長榎本孝一が理事長に就任した。翌四十四年の通常総会で副理事長に岡田利男、松坂進が選任され、組合執行部は一挙に若返りを見せた。日本経済の高度成長下、レジャー産業の花開いた時代であったから、組合も共同事業の開発をはじめ各種事業に意欲を燃やしていたが、そのためには、賦課金制度を改革して組合の財政を立て直すことが何よりの急務であった。
元来、組合は事業に必要な経費を組合員に賦課して運営を行って来た。明治二十九年設立の宿組合は規約第五条に「本組合員ハ規約並ニ組合会議ニ於テ定メタル規程ヲ確守シ且ツ其費用ヲ分担スルノ義務アルモノトス。組合会議ニ欠席シタルノ故ヲ以テ前項ノ義務ヲ免ルヽコトヲ得ズ」と定めている。
明治・大正期の賦課の基準や数字を定かに知ることはできないが、概ね、旅館の規模、収容人員、施設の優劣更には営業実績などを勘案して賦課の割当てを行っていたようである。このような賦課割当ては昭和に入っても同じように行われ、執行部をはじめ地区役員にとっては頭を痛める作業であった。箱根温泉旅館商業組合昭和十九年度の課付金に例をとると、総額一〇、三五〇円を次のように細かく配分している。
(賦課額)(旅館名)(経営者氏名)(町村名)
一八〇円 福住 福住 俊次 湯本町 八五円 山家荘 谷戸 つ子 湯本町
三七〇円 清光園 露木 清吉 〃 五五円 玉泉荘 高山 ハツ 〃
四五五円 吉池 高橋 興平 〃 五〇円 大和館 安藤 ソノ 〃
二〇〇円 弥栄館 吉田 徳蔵 〃 四〇円 鎌倉屋 石内 カネ 〃
一三五円 恵比寿 木邊 三郎 〃 五五〇円 環翠楼 梅村 絢子 〃
一一〇円 萬寿福 古川 周三 〃 三三〇円 市之湯 小川 仙ニ 〃
八五円 吉住 福住興三郎 〃 三八〇円 福住楼 澤村 正吉 〃
一一〇円 古川屋 古川 ヒサ 〃 三四〇円 新玉ノ湯 小川徳次郎 〃
一四〇円 玉翠荘 岩井 きく 〃 六五円 與喜屋 草柳 民称 〃
(湯本町 計 三、六八〇円)
四六〇円 奈良屋 安藤 茂武 温泉村 一五〇円 仙石屋 仙石 辰美 温泉村
六五〇円 富士屋ホテル 山口 堅吉 〃 六五円 好楽荘 曽我 モト 〃
四〇円 明星館 三河 タケ 〃 三一〇円 三河屋 榎本 誠一 〃
三三〇円 蔦屋 澤田吉備子 〃 二一〇円 対星館 野中儀兵衛 〃
二二〇円 梅屋 鈴木 七郎 〃 二〇〇円 大和屋ホテル 川邊源次郎 〃
(温泉村 計 二、六三五円)
七〇円 萬千楼 志賀 まち 宮城野村 一〇五円 くら田 倉田 シズ 宮城野村
五九〇円 強羅ホテル 大久保博司 〃 一七五円 常磐 眞鍋 末野 〃
三八〇円 観光旅館 田中 倉松 〃 九〇円 小高庵 奥山 なか 〃
六五円 翠光館 倉田 タカ 〃 六五円 吉濱 播摩文治郎 〃
一〇〇円 早雲閣 関戸 覚蔵 〃 八〇円 吾妻館 柏木 サト 〃
八〇円 初音 大藤 タミ 〃 七〇円 公園ホテル 日比野徳蔵 〃
(宮城野村 計 一、八七〇円)
一七〇円 箱根ホテル 石井 巌 箱根町 -・駒ヶ岳ホテル大場金太郎 元箱根村
五五円 ふるや 古谷 元平 〃 -・富士見楼 大場金太郎 〃
〇円 高杉 高杉 二郎 〃 二二五円 -・山水楼 大場金太郎 〃
三五円 金波楼 早川キヨミ 元箱根村 -・神山ホテル 大場金太郎 〃
六五円 武蔵屋 小林 善雄 〃 -・芙蓉亭 大場金太郎 〃
一四〇円 橋本屋 小林 秀三 〃 二九五円 松坂屋本店 松坂トミ 芦之湯村
一三〇円 松坂屋 安藤 ミツ 〃 二三〇円 紀伊国屋 川邊 吉雄 〃
九五円 秀明館 西村 秀一 〃
(箱根地区 計 一、四四〇円)
二五〇円 仙郷楼 石村 喜作 仙石原村 一七〇円 萬岳楼 石村要之助 仙石原村
一八〇円 俵石閣 吉田 太平 〃 一二五円 冠峰楼 勝俣角次郎 〃
(仙石原村 計 七二五円)
合計 一〇、三五〇円
その後、賦課割当てを簡素化するため、昭和三十三年度から次のように等級を設け九段階とした。
特 六〇、〇〇〇円 B 三五、〇〇〇円 D 一三、〇〇〇円 F 八、〇〇〇円 H 三、〇〇〇円
A 五〇、〇〇〇円 C 一七、〇〇〇円 E 一〇、〇〇〇円 G 六、〇〇〇円
以後も等級方式が採用され、賦課額及び賦課の方法は総会において定められた。昭和四十三年度は次の十一段階である。
特 九五、八三〇円 2 六三、八八〇円 4 四七、九一〇円 7 二三、九五〇円
特B 八三、八五〇円 2B 五九、八九〇円 5 三九、九三〇円 8 一五、九七〇円
1 七一、八七〇円 3 五五、九〇〇円 6 三一、九四〇円
この金額は五年間据置かれたが、四十八年度に一〇万円、七万円、五万円、三万円の四段階に改正され、五十四年度以降は一律四万円となり現在に至っている。
さて、昭和四十四年度の決算では、賦課金収入六四八万円に対し人件費のみで七四八万円を超えその他の事業費を合わせた不足分は入湯税報償金の二〇〇万円、県町の助成金五〇万円の他雑収入等によって補う状況であった。従って、誘客対策として観光協会に支出した金額は年間僅か六四万円に過ぎない。
このような逼迫した財政の中で共同事業の開発や積極的な誘客宣伝を行うことは到底不可能であったから、発足した新執行部は組合財政を立て直すべく、賦課金制度の改革に精力的に取り組んだ。
この頃、北陸加賀五湯の旅館組合が加賀駅誘致のため、多額の拠出金を国鉄に納入したことを知り、その資金の捻出方法を参考とするため観光委員(委員長髙岡新平)を派遣し調査に当たらせた。この調査報告を基に、経営研究委員会(委員長勝俣武夫)で検討を重ねた結果、箱根においても何等かの名目を設けて組合員旅館の増収を図り、その一部を組合の賦課金とすることを立案した。このような経過を経て、発足したものが入湯料税であり、特別賦課金制度である。
当時、入湯税は三〇円であったが、入湯料税の名目で宿泊客一名につき一〇〇円を徴収し、残り七〇円の内七円は料飲税、一〇円を特別賦課金、残額の五三円を旅館収入とする仕組みであった。宿泊料金が税・サービス料別の時代であったからこのような構想が生まれたのである。五三円の増収は組合員にとって大きなメリットではあったが、宿泊人員を表に出して申告納付する制度は封建的風土の残る箱根では容易に馴染めないものであったから、組合員の多くから不満の声があがった。そのため執行部は地区毎に説明会を開き組合財政の窮乏を訴えて説得につとめ、四十五年五月二十日開催の定時総会においてようやく承認を受け、同年六月一日発足させることができたのである。
この時から組合の収入は賦課金並びに特別賦課金の二本立となり財政の基盤は確立された。実施に当たっては、宿泊客の抵抗を避けるため「入湯料税」のゴム印を作り、公給領収証立替欄に捺印した。誠に苦肉の策ともいうべきものであったが、幸いにも県・町税務当局の了解を得ることができた。また人頭割の賦課制度は大型旅館では多額の負担となるので、小涌園に対しては特に気を配り、秋山総支配人と再三接衝を重ね、賦課総額の約二分の一を観光協会に対する誘客宣伝の委託料とし更に宿泊客の傷害補償の施策を条件として了解を得ることができたのである。
特別賦課金の決算額は四十五年度一、五八〇万円、四十六年度二、一〇〇万円で従来の賦課金約六五〇万円と合わせ組合の財政規模は一新し、海外研修、宿泊客傷害保険や仙石原炊飯事業をはじめ各種共同事業の実施等様々な組合活動が展開されるようになった。また観光協会への負担金も大幅に増額して活発な宣伝活動が開始された。
その後、旅館の宿泊料は次第に税・サービス料込の料金に変わり、入湯料税は名目を失ったので昭和五十年廃止した。以来特別賦課金は組合員の純然たる負担となったが、施設により極めて大きな格差を生ずるこの制度の運用に関しては特に慎重な配慮を今後共欠いてはならない。
昭和五十六年度以降の賦課額は宿泊客一名に付一八円(料飲税免税点以下の場合九円)、修学旅行生一・五円、利用料八〇〇円以上の日帰り客九円と定められ、五十九年度の決算額は三八、七三八、五五一円である。
【賦課金の変還と特別賦課金制度の発足】
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